「裏トモ日記」

福岡県糸島半島にて、
器と暮らしのものKurumianを営む
tomokaの海辺暮らし、日々のできごと。








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俵万智のことば。

 

 

 

俵万智さんのことばは、歌だけではなく、ありとあらゆるものづくりに言える。

 

深いものを作ろうと思えば、深く生きなければならない。

 

#俵万智 #新刊 #牧水の恋 #西日本新聞 #朝刊

 

 

 

ここ数年「何者かにならなければならない」と思い込む人が増えている

ひとつの原因は、SNSが一般に普及したからだと思う。

自分と誰かを比べて、そうなりたい、ああなりたいと思うことは、

決して悪いことではないと思うのだけど、そこになぜ違和感を感じるのか。

 

都会から糸島に移住してきた人の中で、残念だな、気の毒だなと思ったのが、

糸島なのに、都会の暮らし方そのままで苦しそうな人がいるということ。

まわりの住人とは揉め、まったく手入れしない庭や畑は荒れ、

家に篭っていたかと思えば街に出て楽しむ。

・・・その人たちはなぜ糸島に移住してきたのだろう?

 

それはきっと、

都会では成り得なかった「何者かになろう」としていたからではないかと。

自分の理想と本能との乖離に気づいていないからではないか。

糸島で何者かになるというのは、田舎の暮らしそのものが好きでないと、

それは叶わぬ夢なのだ。

 

「何者かになる」のではなくて、

好きなことややりたいことを夢中でやっていたら、本人も知らぬうちに

「何者かになっていた」というのが正しいのではないか。

 

逆に言うと、夢中になれるものがないのなら、何者かになんてならなくても

いいのだし、今をどうしたら楽しめるのかに重きを置いたほうがいいと思った。

 

そういうわたしも向上心が高すぎて、常にここではないどこかを見る癖がある。

幼い頃から「人と違ったことをやる」ことに肯定的で熱心だった両親の影響も

あるだろう。その利点は、自分の意見を持てることと、それを否定されることを

恐れない性格になったことだと思うが、欠点は、今に満足するということがない

ことだ。

 

わたしはずっとこれに悩んできた。

母が50代で亡くなった時、母に似ているわたしは自分の残り時間をカウント

するようになった。有限の時間の中で、ぼんやりしていられないと常に思って

いた。

 

だけど、ふと立ち止まった時に「わたしが目指す場所に幸せはあるのだろうか」

と思うようになった。そこに行けたとしても、そこに満足することなく、

また遥か先を目指そうとするだろう。

 

わたしはきっとこの先も「高み」を完全に手放すことはできない。

それがわたしの原動力であり、生きる糧でもあるから。

でも日常の美しくやわらかい一瞬一瞬に立ち止まり、誰かと共有することも

できる。

 

高みを目指すことは苦しみでもある。ずっともがき続けるかも知れない。

でも、それがわたしの生き方だし、それでいいのだと思っている。

それが「何者かになる」のではなくて、「自分自身になる」ことだ。きっと。

 

何者かになろうとしている時点で誰かと比べ今の自分を放棄している。

わたしはわたしになる。それは本来持って生まれたものを実現することだ。

 

俵万智さんの言う「深く生きる」ということは、きっとこういうことなのだ。

1月で45歳。年をとるのも悪くない。

スッキリした。空は曇天だが気持ちがいい朝だ。

 

 

 

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